【央掘魔羅経(おうくつまらきょう)アングリマーリーヤ Anglimaliya


【内容】

 『央掘魔羅経』は同名の小乗経典や伝承を素材として,「仏身常住」「如来蔵・仏性」を説く大乗経典であり,手法,内容ともに『涅槃経』の影響を強く受けている.

 ところは舎衛城.人を殺しては指を切り落とす殺人鬼アングリマーラ(指を首飾りにする者)の出没に,人々は恐怖する.彼は師匠の妻の讒言のため,千人を殺害し,指を切り落とし首飾りにすることを師匠に命ぜられていた.自分の母を千人目の犠牲者にしようとしたところに,釈尊が登場し,彼を教化する.と,ここまでは脚色その他出入りはあるものの,大筋伝承通りである.本経の大乗的展開,すなわち主要部分はアングリマーラが帰仏して後,諸天,仏弟子が讃歎に現われるところより始まる.

 釈尊の直弟子や文殊師利などが,釈尊及びアングリマーラを讃歎しつつ,自説を披露するが,「仏身常住」「如来蔵・仏性」を説くアングリマーラは,彼らを次々と論破していく.そのアイロニーに満ちたパラドキシカルな説相には,かの『維摩経』を髣髴とさせるものがある.メインテーマは如来法身及び如来蔵・仏性の「不空」であり,最も多くの分量が割かれている.

 次に,アングリマーラと文殊師利は諸仏国土を訪問し,仏身の無量なることが述べられる.

 経はその後,如来蔵・仏性と作仏との関係,断食肉,及び誹謗者や護経などについて述べ,最後に伝承通りにプラセーナジット王を登場させる.王は軍勢を率いて,殺人鬼アングリマーラを捕らえに来たのであるが,アングリマーラが実は南方世界の如来であり,彼の犯した殺人など一切は,衆生を教化するための幻であったことを告げられる.一同納得し,讃歎,歓喜する.以上が本経の大まかな構成である.

 本経全体を貫くパラドキシカルな性格は,無我説を排して如来蔵・仏性を説こうとする意図に由来する.中期大乗経典にしばしば見受けられる論書的冷たさにも無縁で,『涅槃経』の後裔としての位置を保持している.また「一切の諸仏は釈迦牟尼である」と宣言し,諸仏を釈尊に統一しようとするなどの独自の説も見逃せない.

 『涅槃経』と並んで本経と関係の深い経典に『大法鼓経』がある.しかし『大法鼓経』が『涅槃経』第2類の「如来蔵・仏性説」を継承しつつも,再び『法華経』や『涅槃経』第1類の「如来常住説」へと回帰しようとしているのに対し,本経は「如来蔵・仏性説」に重点を置きまとめあげてある.その点では本経の方が,『大法鼓経』以上に『涅槃経』(特に『涅槃経』第2類)の忠実な後継者であると言える.

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【資料】

 資料は漢訳(求那跋陀羅(ぐなばだら)訳『央掘魔羅経(おうくつまらきょう)』大正二・五一二中−五四四中)と,チベット訳('phags pa Sor mo'i phreng ba la phan pa zhes bya ba theg pa chen po'i mdo, tr.by Sakyaprabha, DharmatAsila, Tong, P No.879)それぞれ一種類が知られている.サンスクリット原典は散逸して伝わらず,註釈書も存在しない.食肉を断ずる経典の一つとして,わずかに『楞伽経』,『文殊師利問経』の中で経題が言及されるのみである.このような状況も手伝ってか,本経に関する研究は少なく,従って未解決の問題も多い.

 幸い如来蔵思想や『涅槃経』に関しては,優れた研究成果が従来積み重ねられてきている.研究者はそれらの成果を十分に踏まえつつ,本経の研究に取り組むべきである.

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【ハイライト箇所】

(1)六戒(五戒+不歌舞戒)を否定して,新たに逆説的な六戒を提唱する箇所よりの引用.本経のパラドキシカルな性格がよく伺える.
 世尊は仰った.「それではアングリマーラよ,汝は不邪婬戒を護りなさい」
 するとアングリマーラは世尊に次のような詩でお答えした.「私は不邪婬戒を護りません.人妻といつも遊びます.旗のごとくに赴く先は娼婦の館,あらゆる女とも交わります.三昧の喜びが私の妻,[三昧]以外の法を喜ぶことが人妻との交わりです.勇敢にして真実を喜ぶことが私の息子,慈悲が私の多くの娘たちです.“空”を私の家として,無量の波羅蜜を寝床とし,諸々の煩悩にかしずかれ,密意された秘密の教えを食します.私の庭園は諸々の陀羅尼であり,[七]覚支という華で飾られています.解脱智という実を結び,私の法語が樹木です.これらは家住者たちの最大の娯楽.愚者の理解を越えており,賢者のみの自性の法なのです」

(『央掘魔羅経』P No.879 Tsu 174a6-174b3, D No.213 Tsha 167a3-167a7


(2)アングリマーラを捕らえようと赴いてきたプラセーナジット王が,世尊と対話する箇所よりの引用.殺人鬼アングリマーラを南方世界の如来とするところなど,自由な創作活動を行う大乗経典作者の面目躍如たるものがある.
 世尊は仰った.「大王よ,アングリマーラは悪人ではない.方便をそなえた菩薩大士と言われるべきである」
 大王は反論した.「師匠の奥方と不義をなし,師匠の呪咀によって殺人鬼となったのですから,どうして悪人でないことがありましょうや」
 世尊は仰った.「アングリマーラは師匠の妻と不義をなしてはいない.師匠の妻が[アングリマーラの]姿を見て懸想したのであり,[その後あたかも]悪事をなすかのごとくに,師匠の教えで遊戯している[に過ぎない]のだと,ことの顛末を[汝も]判断するようになろう.
 王よ,菩薩とはこのようなものなのだ.例えば象の突進にロバは耐えられない.それと同じく,人中の雄・大象たる如来が密意して語られた説法攻撃には,声聞も独覚も耐えることができない.そうであるから,如来が密意して語られた秘密の[説法]攻撃には,ただ如来のみが耐えうるのである.
 大王よ,この仏国土から南の方角に六二のガンジス河の砂ほどの仏国土を過ぎたところに,“一切の宝で飾られた”という名前の世界がある.その世界には“一切世間の人々がまみえて喜ぶ最勝大精進”という如来・応供・正等覚者が現在おいでで,そこには声聞・独覚もおらず,一乗以外の余乗の名前すらなく,老・病・憂悩もない.一切の快楽をそなえ,衆生たちは寿命無量であり,それら衆生たち一切は無限の威力と光明に満ちあふれている.そこに住する生き物たちもまた無比・無因・無作であり,“一切の宝で飾られた”世界のごときは,例えることもできないのだ.
 大王よ,かの“一切世間の人々がまみえて喜ぶ最勝大精進”如来・応供・正等覚者に合掌し,隨喜なさい.かの如来こそ,ここにいるアングリマーラなのである.仏陀の威神力とはこのようなものであり,仏陀の力は思惟の及ばないものなのだ」

(『央掘魔羅経』P No.879 Tsu 211a6-212a1, D No.213 Tsha 203b4-204a6

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